舞 鶴 百 撰

           

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中心市街地(西山山麓一帯除く)
15 並木稲荷神社
(正一位並木稲荷大明神)


 創建 寛保三年(一七四三)
 島崎の「並木稲荷神社」 俗に島崎稲荷の名で知られている。
願意に家内安全、商売繁盛に加えて海上安全の祈りも大きい。
  もとは、高野川河口西岸の岬に祀られていたが、藩の船番所がつくられた為、文化四年(一八 〇七年)頃に現在地に移祀されたと伝えられている。
  この稲荷社の土地が、竹屋町町内の飛び地であることは、竹屋町が海と関わって城下町経済の 中心を占めた過去の栄光を語るものとみられる。
  古来、ここは、竹屋町の氏神として経済繁栄の願いをかなえる神と信じられ、城下町随一の稲 荷とされた。
16 住吉神社


 十八世紀中頃、ある商船が住吉の入り江に入港した際、航海安全の守護神である「墨江三前大 神」を松林の間に安置したのを城下の町人、住屋角兵衛が小祠を造って祀り、海上の安全と商 売繁栄を祈念したという。
  これを知った城主牧野以茂が敬い、社と「偕楽堂」を造り、角兵衛に鍵番を命じ管理させた。 いつの頃からかここに魚屋の氏神として、堺の住吉神社を合祀するようになった。
17 水無月神社


 六月の別名を水無月と言います。陰暦六月三十日は「名越し(夏越し)大祓え」といって、茅 の輪をくぐったり、人形(ひとがた)を川に流したりして半年の汚れを清めます。
 吉原の漁民は、昔、竹屋の川尻に住んでいましたが、享保十二年(一七二八年)の大火により 今のところに移住させられました。ヨシの生い茂る低湿地のため、悪疫の流行が絶えず、厄払 いのためには、「川下に水無月神社(祭神は月夜見命・・つきよみのみこと)をまつって、名 越しの祓いをしたらよい」ということから、寛保三年(一七四三年)に創 したのがこの水無 月神社です。境内の午頭天王社も、寛政十年(一七九八年)にまつった疫病や災難よけの神( 祭神は健速須佐男命・・たけはやすさのおのみこと)です。「なるかならぬか水無月さまよか けた願いが今日とける」舞鶴小唄にも歌われたお宮。七月中旬には夜祭りで賑わいます。
18 丹波町
 恵比須神社


 明治十八年 魚商有志が京都市の建仁寺内の恵比須神社の分霊を受け、北浜に祀ったのが起り とされています。その後魚商の神様から、一般商店も含む商売繁盛の神様へと信仰が広がり、 神社の場所も明治三十二年、魚屋北浜から、この丹波町に移りました。そして同三十五年から は朝代神社の境外地となっていました。神社の維持管理も、魚商組合から次第に丹波町内会の 人々の手に移って行きました。
  恵比須神社の祭礼は、明治後期からは、現在の十一月二十日に行われ、「えびす市」もこの時 期に行われています。明治四十五年、坂本帆声作の「舞鶴唱歌」の一節には、「恵比須神社は 字丹波 催す秋の市三日人出ぞ織るが如くなる 其の店々の賑わしさ」とあり、西地区商店街 の年一度の大売り出しと、神社の秋祭りが結びついた「えびす市」が当時すでに定着していた ことを物語っています。
  一月十日は初戎(十日戎)で大阪の今宮戎の賑わいが知られていますが、舞鶴ではこの日 神 事だけのお祭りが営まれています。
19 高野川を挟んだ町と
大手川、農人橋

 高野川西側の町筋は複雑で、西山山麓寺院配置とともに田辺城の防衛線として意識され、つく られたものと考えられます
  城下町の高野川に架かる唯一の橋「大橋」を寺内から本町へ渡った東側の町場は、南北の道を 主軸として歴然とつくられていることから、経済的な効果を期待した城下町としてつくられた ものと見られ、幕藩体制が整い、戦国時代の動乱がうすれた江戸時代中期以降の町づくりを物 語っています。
  高野川に流れ込むこの大手川は、かつて田辺城の外堀として重要な防御の役割を果たすだけで なく、この大手川に沿って職人町(現在の北田辺)と七軒(現在の南田辺七軒)にあった田辺 藩の武家屋敷に人や品物を運ぶ運河の役もしていました。この場所から見える石橋は、江戸時 代から唯一残る農人橋です。この橋は引土の農家が農作物を町に売るのに使われていました。
20 審致舎

 藩政時代の牧野氏の別邸。この橋の東側にある西郵便局とNTTの場所に昭和十四年取り壊さ れるまでありました。
  旧藩士の窮状を救う商社として明治四年旧藩主自ら資金を積んで設け、今の銀行と消費組合を 兼ねたほかに、鉄、綿、糸等を商っていました。明治の鎮守府開庁後及び日露大戦前は国の重 要人物の宿泊所でもあり、西郷従道、伊藤博文、東郷平八郎、山本権兵衛などが宿泊、会合し 日露開戦の決意がなされました。
(昭和十四年地方新聞「丹州時報」より)
 又、明治時代舞鶴出身の大実業家「有本国蔵翁(西総合会館前の銅像)」は、十二才でこの 審致舎に丁稚奉公し、商売を覚え、その後大阪で名を成し、田辺城隅櫓をはじめ、図書館、公 会堂、その他郷土発展のために巨額の寄付を行った人物です。
21 真名井の
名水の由来

 昔、「豊受大神」がこの舞鶴「田辺」の里のいさなご岳という山に降りてこられました。そし て、「天香具山の命」という神様が、放った矢が刺さった所(公文名、七日市両字境の大池) から湧き出た霊泉を「豊受大神」の御供物としたのが「真名井の清水」と云われています。
  この清水は、昔から、乾くこともなく溢れることもなく、其の味甘露のごとくで万病を治すと されています。
  江戸時代には、日照りになっても枯れる事のないこの名水を、城内の御水道として、城主幽斎 公も非常に大切にされておられました。又、城下では庶民の暮らしを支える貴重な水として利 用され、現在でも、美味しい水として多くの市民に利用されています。
22 明倫館
(現明倫小学校)


 牧野代(天明年間)藩校明倫斎として創立。文久年間に明倫館と改められ明治五年の学制の頒 布により明倫校となる。現存する校門が当時を偲ばせる。
明倫とは孟子滕文公篇の一説「庠序学校を説為して以って之を教う(伝々)皆人倫を明らかに する所以なり」(人の道を明らかにして教え導く学校の意味)より名付けられた。
23 うのもり神社


 「うのもり(漢字)神社」を「うの森神社」と呼んでいます。辞書には「(う)」も「(もり )」もウノトリのことです。江戸時代の「丹哥府志」には「うのもり(漢字)大明神」とあり ます。
もとは円満寺村の氏神で、天正年間、細川氏が田辺築城の際同村民は四軒だけを残して、他は 喜多へ移住させられ、「うのもり」は城内二の丸に残りました。祭りのときには、村民たちが 、城内に入るのをとくに許されたとあります。
 祭神を日本書紀にある「うのもり(漢字)草葺不合尊」としたのは、明治以降ではないかと 思われます。この神は、日向の鵜戸神宮の祭神で神武天皇の父の神に当たり「海幸彦・山幸彦 」伝説の山幸彦ー火折尊(彦火火出見尊)が海神の宮に行き、その娘の豊玉姫との間に生まれ た神です。境内の砂はマムシ除けの霊験があるといわれます。
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第一章 
 細川藤孝
  (幽斎)

 細川藤孝は、天文三年(一五三四)室町幕府重臣 三淵晴員の二男として生まれ、有力な幕臣 細川氏の養子となり、将軍の側近として室町幕府をささえました。
  織田信長の家臣となった藤孝は、明智光秀とともに丹後 丹波を攻略。天正八年(一 五八 〇)丹後国は細川藤孝、忠興親子の領国となり、細川親子は、この地に田辺城を築きまし た。
天正十年(一五八二)五月、「本能寺の変」で信長が光秀に討たれると、藤孝は、髪をおろし て「幽斎玄旨」と号して田辺城に移り、明智光秀の誘いには応じませんでした。藤孝は光秀に 天下人の器量があるとは考えてはいませんでした。
 その後、関ヶ原の合戦で息子忠興は、徳川家康に味方して功をあげ、細川家は九州へ加増転封 されました。田辺籠城戦によって石田方の大軍を関ヶ原に参戦させなかった幽斎の功も大きか ったのです。
  足利将軍、信長、秀吉、家康と、ときの天下人をささえた幽斎は、慶長十五年(一六一〇)七 十七才でこの世を去りました。
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第二章 
 田辺籠城

 豊臣秀吉の没後、石田三成と徳川家康の対立は激しくなっていきました。
  慶長五年(一六〇〇)細川忠興は、家康の会津征伐に助勢し、関東へ向かいました。三成は、 この機を捉え大阪で挙兵、大阪の細川屋敷にいた忠興の妻ガラシャを人質にしようとしました がガラシャはこれを拒否、自刃して果てました。
 このとき幽斎は宮津城にいましたが、主要な家臣の殆どが忠興と共に下向していました。そこ で幽斎は、宮津城、峰山城を焼き払い五百人余の手勢で田辺城に籠城しました。
 東は伊佐津川、西は高野川、南は湿地、北は海に面した田辺城は籠城戦には最適の場所だった のです。
  慶長五年七月下旬、福知山城主小野木縫殿助をはじめとする石田三成方一万五千人の軍勢が田 辺に進攻、田辺城のまわりに陣取り遠巻きに攻撃を加え始めました。五十余日に及ぶ攻防戦が はじまったのです。
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第三章 
 古今伝授

 細川幽斎は、数多くの学術芸能に精通した当代随一の文化人でした。特に幽斎は、古今和歌集 の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であったため、田辺城に籠城した幽斎が万一討ち死にすれば 、歌道の奥義が廃絶することを憂慮した後陽成天皇は、勅使を送り幽斎に開城を勧めました。
 しかし、幽斎は、開城は武人の本意ではないと固辞し、勅使に古今伝授の秘伝書と「いにしへ も今もかはらぬ世の中にこころの種を残す言の葉」という和歌一首を託しました。この秘伝書 を伝えた場所が、この古今伝授の松の下「心種園碑」が建っているところと伝えられています 。
  九月に入り朝廷は、田辺城を囲む西軍の陣に勅使をつかわして両軍に和議を命じました。五十 余日にわたる田辺籠城戦はこうして幕を下ろしたのです。
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第四章 
 京極氏の
   治政


 慶長五年(一六〇〇)、細川氏国替えの後には、信濃国飯田城高知が丹後の国を与えられまし た。宮津城が消失していたため、田辺城に入った高知は、城の修復にとりかかり、二の丸や三 の丸を大きく拡張して田辺城を整備しました。
また、慶長七年(一六〇二)には全領地の検地を行い標準米収穫高十二万三千百七十五石の石 高を検出して、丹後国の石高を確立しました。
 しかし、高知が没したあとの元和八年(一六二二)には、その遺命により丹後の国を三人の息 子に分与されることになりました。
 ここに、宮津藩(七万八千百七十五石)、田辺藩(三万五千石)、峰山藩(一万石)の三藩が 成立したのです。
 その後京極氏は、高三、高直、高盛がそれぞれ田辺藩を治めましたが、城門など主要な施設が 宮津城に移されたため、田辺城は荒廃してしまいました。
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第五章 
 牧野氏の
   治政


 寛文八年(一六六八)に京極氏は但馬国豊岡へ国替えした後、京都北辺鎮護にとって重要な丹 後国を譜代大名領とする幕府の政策により、京都所司代の要職を退いた牧野親成が摂津国から 入りました。
親成は、荒れていた田辺城の修復にとりかかり、大手門をはじめ北の船着門、東の大内門など の諸建造物や石垣、心種園を整備しました。
  牧野家は代々、親成が京都所司代、富成は奏者番(大名、旗本などの将軍拝謁の際、その取り 次ぎを行い、礼式を司り、ときに大名屋敷に将軍の言葉を伝える上司役)、英成は奏者番 寺 社奉行 京都所司代、明成は奏者番 惟成は奏者番 寺社奉行、誠成は奏者番を勤めました。
 このように代々徳川幕府の要職に就いた牧野家に伝来した甲胄が、田辺城資料館に常設展示し てあります。

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